私という名の物語

株式会社one's glory 西門のブログです。お仕事、サンプル作品時々、実績公開やら、日常の思考暴露時々と挑戦すること時々。

責任を生きるという私のスタンス

 

散ってしまった落ち葉でも、

美しいと思えるようになった自分が今ここにいます。

 

数年前まで、散ってしまった葉っぱに

視線を向けることなどあったかしら?

 

『老い』を感じる年齢に差し掛かって、

その光景を自分と重ねている……

そこまでセンチメンタルではありませんが、

そこにある落ち葉の光景に美しいと感じて

シャッターを切りました。

 

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自分の役割が終わって、潔く散る葉っぱ。

本来はそんなことを葉っぱが考えているとは

思わないのですが、私には『責任を生きた』ように

見えました。

 

雨のせいにすることもなく、

風のせいにすることもない。

 

雨も風も、ただ偶然に、葉っぱの背中を押しただけ。

この中には、自ら時期を察して落ちた葉っぱもあることでしょう。

 

誰のせいにもせず歩く自分の人生は、

とっても清々しいもの。

自然界は、時にそういうことを思い出させてくれます。

 

誰のせいにもしないということは、

行き場のない怒りや悲しみを抱えることもあるでしょう。

そこそこ人生を生きていると、どうしようもないことも

起こるし、何かのせいにした方が楽なこともあります。

 

でもね。

自分にやってくるすべての出来事は、

自分の人生にもともとあった物語だと思えば、

この先の未来を書き換えられるのは自分だけ。

 

人のせいや、何かのせいにして生きるより、

清々しく、少しでも多くの幸せや

自分で自分をほめてあげられるような小さな満足を

感じて生きる方が、ずっと先の人生を迎えるころに

自分を愛していられる……私は、そう思うのです。

 

自分の中の自分を否定して生きるのは、

一番、辛いことでしょう?

 

自分らしく自分の責任で選択した人生を生きて

老後、物語を読み返すときがきたら、

私はどんなことを後世に残せたのだろうと

ワクワクしますよ。

 

私の真っ白な未来の物語のページには

ただ、責任を生きるという私のスタンス(設定)だけが

書かれていて、この瞬間にも文字が綴られている。

 

落ちた葉っぱは、もう朽ちるのみですが、

彩り豊かな様子を誰かが見て目を細めています。

 

責任を生きた証は、後世に残るのかもしれませんね。

来年、新しい葉っぱが芽吹くころを

作ったのも、この葉っぱたち。

 

そう思うと、私は今の現状の責任を生きて

踏ん張るときなんだなと思うのでした。

 

私の選ぶ人生は、旦那のものでも、

ましてや、子供のものでもありません。

 

家族がいることで、選択する全てのことに、

窮屈さを感じることもありますが、どうすれば一番いいのか

考えることも案外、楽しいもんです。

 

誰かのせいにしてても、

何も始まらないし、変わらないしね……。

 

さて、あなたは『責任』を生きますか?

それとも『無責任』を生きますか?

 

どっちにしても、

それはあなたの人生です。

 

 

2016/12/16  西門 檀